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名誉市民 西脇順三郎(にしわき じゅんざぶろう)

印刷ページ表示 更新日:2011年4月8日更新

西洋文化をこよなく愛し、ふるさとを嫌悪した日々。

1894年小千谷に生まれ、1982年小千谷で永眠。その88年の生涯を、偉大な詩人として、また優れた英文学者として旺盛に生きた西脇順三郎。彼の精神の土壌になったものは、生を受け、生を閉じたふるさと、愛憎とともにさまざまな想いが駆け巡った「小千谷」だったのかもしれない。

順三郎は旧小千谷町の旧家で、裕福な家柄に生まれた。親族に当時地方では珍しかった海外生活経験者がおり、家には西洋の絵画集や英字新聞が日常的におかれていたという。そのような環境の中で、順三郎の西洋の文化芸術に対する関心や憧れは、次第にはぐくまれていったのだろう。

西脇順三郎(1894年~1982年)の画像
西脇順三郎(1894年~1982年)の画像

県立小千谷中学校(現小千谷高校)を卒業すると、画家を志して上京する。しかし、洋画壇に見込まれた才能をさらに磨こうとした矢先、父の死にあい、フランス留学の計画が挫折。画家への道を志し半ばにして断念することになる。芸術への探求心が詩作に向けられたのはこの時期であった

その翌年、慶應義塾大学へ入学。英語による詩作を始めるとともに、ギリシャ、ラテン、ドイツなどの語学に励み、西欧諸国の文学に親しむようになる。専攻が経済学だったため、卒論のテーマは「純粋経済学」だったが、その全文をラテン語で書いたというから相当なものだ。とにかく、若き日の順三郎の西洋への傾倒ぶりは徹底していた。「日本的なものすべて」、とりわけ「ふるさと」を嫌悪し、「小千谷」という言葉を聞くことすらいとったという。

東洋回帰。そして小千谷を終焉の地に選んだ理由。

山本山の石碑の画像
山本山の石碑の画像

大学卒業後、病気療養のため一時小千谷へ帰った順三郎は、1919年再び上京。慶應義塾大学予科教員となった年に、日本の詩の流れを変えた萩原朔太郎の詩集「月に吠える」の出版だ。ここで初めて使われた口語体自由詩という斬新なスタイルは、順三郎にそれまで顧みなかった日本語での詩作を決意させる。それは、のちの渡英体験や、帰国後、大学教授として関わった文学運動を経て、1933年処女詩集「ambarvalia(アムバルワリア)」に結実。文学史に燦然と輝くこのデビュー作で詩人としての不朽の地位は確立した。

だが、以後十余年、彼は詩作を離れて学術研究に没頭。その背景にあったのは、西洋的風潮を弾圧した、第二次世界大戦という状況と、順三郎が今までになく東洋的な美にひかれだし、より洗練された芸術世界を求めて模索を始めたためであった。

順三郎の心に再び新しい詩想が芽生えたのは、戦中の窮乏生活でのことである。家族とともに疎開した小千谷で、日本の古典を読みあさり、自ら雅号を付けて水墨画を描く日々。掌を返したようなこの東洋回帰から、第二詩集「旅人かへらず」が着想される。この作品の一貫したテーマは、東洋特有の神秘的な美の世界「幽玄」の、新しい視点による再創造だった。

前作とまったく異質な作風だったが、これも前作同様高い評価を受け、詩人第二のスタートといわれた。その時順三郎は53歳。みずみずしい想像力は以後も衰えず、大学教授のかたわら、次々と詩集、評論、訳詩などを発表し続ける。

また、このあと、順三郎はかつての反発を捨てて、折りあるごとに小千谷を訪れるようになっていた。少年の頃の思い出の地を歩いたり、独特の幻想的なタッチで風景画を描いたり、時には東京から文学仲間を案内し、山本山から見える信濃川の美しい蛇行を自慢したという。自らを「帰らぬ旅人」になぞらえた詩人は、どんな想いを重ねてふるさとの山河を見つめていたのか。妻を看取り、息子が海外へ旅立った後、順三郎が終焉の地として選んだのは小千谷だった。西洋から始まった順三郎の芸術は、日本の伝統を再発見し、最後にふるさとへと回帰したのである。

西脇順三郎年表

1894年(明治27年) 1月20日、小千谷町(現小千谷市)138番地に次男として生まれる。生家は旧家で、父・寛蔵は小千谷銀行の当主。

1900年(明治33年) 小千谷尋常高等小学校入学。

1906年(明治39年) 新潟県立小千谷中学校(現小千谷高校)入学。

1911年(明治44年) 画家を志し上京するが、諸事情により断念。

1912年(明治45年) 慶應義塾大学理財科予科入学。

1917年(大正6年) 同卒業。

1920年(大正9年) 同大予科教員就任。

1922年(大正11年) 同大英文学研究のため、ロンドン留学。

1924年(大正13年) 英国人画家 マージョリ・ビドルと結婚。

1925年(大正14年) 帰国。

1926年(大正15年) 慶應義塾大学文学部教授に就任。

1932年(昭和7年) マージョリと離婚。桑山 冴子と結婚。

1933年(昭和8年) 詩集「ambarvalia」刊。

1938年(昭和13年) 長男 順一生まれる。

1944年(昭和19年) 小千谷へ疎開。

1945年(昭和20年) 帰京。

1947年(昭和22年) 「あむばるわりあ」、「旅人かへらず」刊。

1949年(昭和24年) 文学博士の学位授与。

1964年(昭和39年) 小千谷市名誉市民となる。

1968年(昭和43年) 勲三等瑞宝章。

1971年(昭和46年) 文化功労者に選ばれる。

1974年(昭和49年) 勲二等瑞宝章。

1975年(昭和50年) 冴子夫人死去。

1976年(昭和51年) 蔵書多数を小千谷市立図書館に寄贈。

1978年(昭和53年) 小千谷市立図書館に「西脇 順三郎記念室」開設。

1982年(昭和57年) 療養のため帰京。小千谷総合病院にて6月5日死去。

1983年(昭和58年) 小千谷市に「偲ぶ会」発足。

1985年(昭和60年) 小千谷市内、山本山に詩碑建立。

1994年(平成6年) 小千谷市をはじめ、各地で生誕百年記念行事が開催される。

<関連リンク>

・小千谷市立図書館西脇順三郎記念室のページはこちらから

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