公開庭園入口![]() |
|||||||
公開庭園入口の看板
|
|||||||
「開校130周年記念碑」 平成9年10月1日 「克己復礼」 山本比呂伎翁が残した書「己に克ちて礼に復る(おのれにかちてれいにかえる)」 論語の一節、「私欲を抑え、人間の踏むべき社会の規範や礼に従って行動すること。」の大切さを説いている。孔子が重んじた「仁」について、弟子の顔淵に答えた言葉として伝わっている。 |
|||||||
「開校130周年記念碑」 平成9年10月1日 山田到處(とうしょ)の書「讀聖賢書」 「聖賢の書を読み、修斉の志を立てる」という意味で、「聖人や賢人、つまり知識・人格にすぐれた人たちの書物を読み、自身を修め家庭を平穏にしようとする気持ちをしっかりと持つ」ということ。朱子学における修養の工夫が説かれている。 到處は号で、名は錫、字は政尚、通称を愛之助と言った。明治維新後、小千谷民政局に出仕し、小千谷校振徳館の開校に力を尽くし、筆頭教授(校長)となった。 |
|||||||
![]() ![]() 「開校130周年記念碑」 平成9年10月1日 開校当時の校名「振徳館」と刻まれている。 |
|||||||
「開校130周年記念樹」 平成9年12月 |
|||||||
創立110周年タイムカプセル記念樹 昭和52年度卒業ひまわり学年 平成11年5月3日 |
|||||||
「『考える人』の像」 昭和46年11月 「県技術賞受賞記念」として、桑原保氏から寄贈された。 小千谷市平沢新田の桑原保氏は、かすり糸の染色機の製造で県から技術賞を受賞したのを記念して、昭和46年11月に「考える人」の像を、小千谷小学校に寄贈してくださった。 翌年の昭和47年からは毎年、ミニチュアの考える人像を6個ずつ寄贈してくださっていた。これは、「自由な発想で、科学研究に取り組む子どもたちを励ましてやりたい」という桑原様の志を受け、当時の校長が、「考える人」賞を設けた。そして、夏休みの自由研究の優秀な者に学年一人ずつを表彰していた。この取組は、平成11年頃まで続けられた。 |
|||||||
「昭和51年度卒業記念品」 昭和52年3月 |
|||||||
「昭和51年度入学記念樹」 |
|||||||
「昭和50年度入学記念樹」 |
|||||||
「『のびゆく』の像」 昭和46年11月3日 1年生の入学記念として、設置された。 |
|
|||||||||
![]() ![]() 「ビオトープ」 平成23年 グラウンドの脇に、水生生物が生息できるビオトープが作られ、子どもたちの人気の場所となっている。 |
|||||||||
|
|||||||||
|
|||||||||
|
|||||||||
![]() 「緑鳥斜面『はばたく』」 昭和62年6月 開校120周年記念事業の一つとして、昭和62年度学校校庭緑化推進事業を受けて、緑鳥斜面が整備された。
した。 斜面の勾配をなだらかにし、桜、コナラ、紫陽花、ハツユキカズラ、クローバーなどで季節毎の自然を楽しめるようにした。 観覧席、「はばたく」の文字とその囲みの塗装した。 緑鳥斜面では、子どもたちが鬼ごっこや虫探し、花や草を摘んだり、ベンチで会話したりして笑顔で過ごしている。 |
![]() 装幀額「振徳館」 「振徳館」「明治元年辰初冬 於 小千谷庁所 渡辺 積 書」 明治元年戊辰の年の初冬、柏崎県小千谷庁舎において、所長の渡辺積が書いたと記されている。 「はじめての小学校にかけてあった額」である。(「小千谷小学校のあゆみ」p6より) 昔の紋章(中央) 桑原芳太郎先生御退職記念誌「道 遙かなり」(p42)に、次のように記述されている。 「百年の重みを、子どもたちに実感として、じかに感じさせたいという彼の強い意図から、昔、小学校女子部の校舎正面にかざられていたという木彫の八咫(はちくち)の鏡の紋章をさがし出し、長年風雨にさらされ、煤(すす)が蠣(かき)のようにこびりついて原型も定かでなかったこの紋章を分解して、当時の六年生全員にこれをみがかせた。これは大変な労作であったが協力してやりとげ、現在、職員玄関ホールの正面に飾られている。」 前校舎(鉄筋校舎)の正面玄関に飾られていたものを、平成27年度に台座を新調して、現在の校舎、児童玄関前のホールに設置した。 山本比呂伎翁之像(右) 銘「山本比呂伎翁之像 小千谷市長 佐藤 武 書」 撰文「文政十年(1827)生。徳右ェ門といい後 比呂伎と改名 明治元年戊辰の戦禍にあった長岡藩の子供達を救い 地元の子弟と共に教育して有為な人材を作るため小学校を創設したい旨を柏崎県知事に建白し 私財千両の献納を申し出た。同年十月一日民政局は之を許可し 五智院を教育場に「小千谷校」が開校。現在の小千谷小学校にして わが国最初の公立小学校である。 氏は国学神道に精通し一世の先覚者として各方面における小千谷の代表的指導者であった。明治四十年十一月逝去八十一歳。 昭和四十八年十月一日 小千谷市教育長 高野 一能 撰書 」 西脇済三郎翁之像(左) 銘「西脇済三郎翁之像 小千谷市長 佐藤 武 書」 撰文「明治十三年(1880)生。英国ケンブリッヂ大学の留学を終わって帰朝するや直ちに小千谷小学校男子部校舎を新築(明治四十二年)。更に、女子部校舎をも新築(大正十年)校地と共に寄附して現小千谷小学校の基を定められた。その他小千谷の教育文化と公共福祉のために惜しみなく私財を投じ、比類ない貢献をなされた。昭和三十七年三月二十一日逝去。八十三歳。同三十九年八月市政施行十周年記念式に当たり 小千谷市は氏の功を讃え 名誉市民の称号(第一号)を贈った。 昭和四十八年十月一日 小千谷市教育長 高野 一能 撰書 」 この山本・西脇両氏の顕彰像(レリーフ形式)は、小千谷小学校同窓会有志の会の設立を計画し、有志会発足の第一事業として、母校百余年にわたる輝かしい伝統を具現し後世に伝えるために建立されたものです。 百五年目の開校記念日に当たる昭和四十八年十月一日に、両氏の像の除幕をして、その偉業を讃え、同時に同窓会有志の会の発足の日となりました。 |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
|
※ このページは、随時更新しています。お気付きのことがありましたら、ぜひご連絡くだ さい。加筆・修正していきます。 |