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戊辰戦争ゆかりの史跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月8日更新

戊辰戦争ゆかりの史跡をご紹介します

 小千谷市は、信濃川舟運の要衝で、江戸時代中期から、麻織物「縮」をはじめとする織物の流通により栄えていました。小千谷は江戸幕府の領地で、1724年(享保9年)から、会津藩預かり地となっていたため、戊辰戦争に巻き込まれ、小千谷市には今でも戊辰戦争ゆかりの史跡が数多く残されています。

慈眼寺

慈眼寺会見の間

 慶応4年(1868年)5月2日、長岡藩家老河井継之助が、新政府軍との衝突を避けるため、新政府軍軍監岩村精一郎と和平交渉(小千谷談判)をした「会見の間」が、今も大切に保存されています。交渉相手の岩村は23歳の若き軍監。交渉は30分足らずで決裂し、長岡藩は戦いへの道を選ぶこととなります。

 ・住所:小千谷市平成2-3-35

船岡山西軍墓地

船岡山西軍墓地

 当時、新政府軍は全国各地から兵士が集められていました。小千谷での戦いで亡くなった兵士は、各所の寺に埋葬されていましたが、明治41年(1908年)に、地元有志が船岡山に合葬しました。船岡山西軍墓地には、ふるさとを思い亡くなった薩摩藩や長州藩の兵士ら199人のお墓があります。 ※西軍(せいぐん)とは、新政府軍のことです。

 ・住所:小千谷市稲荷町12-2

東忠

東忠「梅の間」

 慈眼寺での和平交渉(小千谷談判)が決裂し、河井継之助が遅めの昼食をとった割烹です。継之助が昼食をとった部屋は、今も「梅の間」と呼ばれ大切に保存されています。東忠の建物は、国の登録有形文化財でもあります。

 ・住所:小千谷市元町11-11

五智院

五智院

 五智院は、元町にある真言宗のお寺です。五智院は、小千谷の縮商人の家に生まれた山本比呂伎が私財をなげうって開校した、「日本で最初の公立小学校」でもあります。当時、新政府軍により長岡藩の子息を匿うことは禁じられていましたが、長岡城下の戦いで焼け出された長岡藩士の子どもや、小千谷の子どもたちに教育を受けさせようと、山本比呂伎は奔走し、それが現在の小千谷小学校になります。

 ・住所:小千谷市元町14-7

司馬遼太郎 「峠」文学碑

「越の大橋」西詰めポケットパーク

 小千谷市と長岡市をつなぐ「越の大橋(こしのおおはし)」西詰めのポケットパークに、この文学碑は建っています。石の形や素材、文字の大きさなど、最大限、司馬先生のご希望に添うよう制作された石碑です。碑の表側には、司馬先生が自ら選んだ小説「峠」の中の一節が、先生の直筆で彫られています。また、碑の裏側には、司馬先生がこの文学碑のために書き下ろされた「峠のこと」という文章が彫られています。残念ながら、司馬先生は完成した文学碑を見ることはできませんでしたが、この「峠」の文学碑は、小千谷市民と、司馬遼太郎ファンの、まぎれもない宝物となっています。文学碑の石の中には、「鎮め物」として、旧幕府軍と新政府軍両軍の銃弾が納められています。

 ・住所:小千谷市高梨町(国道17号「越の大橋」西詰め)

朝日山古戦場

朝日山古戦場展望台

 激戦を極めた朝日山の戦いでは、両軍ともに多くの兵士の命が失われました。濃霧の中、奇襲をかけた新政府軍参謀代理時山直八や、見張り役をしていた会津藩白虎隊士新国英之助(にっくに えいのすけ)の悲劇が語り伝えられています。朝日山山頂までの道すがらには、兵士のお墓が点々と建っていて、今でもお花やろうそくが供えられ、大切に守られています。山頂には、資料展示室と、旧幕府軍が作ったフランス式塹壕が今も残っています。

 住所:小千谷市浦柄

浦柄神社

22人の兵士のお墓

 朝日山の登り口にある浦柄神社の裏に、激戦で亡くなった22人の兵士のお墓があります。会津藩白虎隊士新国英之助のほか、名も無き兵士20人と、新政府軍参謀代理時山直八のお墓があり、地元浦柄の人々が、「亡くなってしまえば敵も味方も無い」と、大切に供養をしています。名もなき兵士のほとんどが10代だったと言われています。地元浦柄の「浦柄史蹟保存会」により、朝日山の戊辰史跡が守られています。

 住所:小千谷市浦柄660

雪峠 激戦の地記念碑

激戦の地記念碑

 慶応4年(1868年)閏4月26日の昼過ぎ、新政府軍が雪峠の麓、芋坂に兵を進めてきました。はじめは地の利を生かして優位に立っていた旧幕府軍も、圧倒的な軍事力の差で、撤退を余儀なくされました。壮絶な戦いを繰り広げた激戦の地として、平成7年(1995年)に、市民有志により記念碑が建立されました。記念碑には、「昔戦場 今農場 農魂が後世に伝わる様に」と記されています。

 住所:小千谷市池中新田

市内に点在する戦没者の墓

尾州藩士の墓(片貝 浄照寺)

木々に囲まれた浄照寺本堂

 片貝町県道沿いにある高い木々に囲まれた静かな古刹、浄照寺。浄照寺は、戊辰戦争の際、旧幕府軍(会津藩)の本営となりました。お寺の墓地には、尾州藩士(新政府軍)の墓が6基並んでいます。墓石には、慶応4年(1868年)5月3日、片貝の戦いで戦死した尾州藩士の名が刻まれています。

 ・住所:小千谷市片貝町6319

上田藩士の墓(三仏生 遍了寺)

遍了寺本堂

 戊辰戦争の際、遍了寺には新政府軍が滞在していました。遍了寺には、新政府軍が三仏生に駐留していた当時のことを詳しく書き記した過去帳が残っています。お寺の本堂軒先には、旧幕府軍の弾丸が命中し、今も弾痕が残っています。また、お寺の墓地には、上田藩士(新政府軍)5名のお墓があります。平成16年の中越地震の際に、お墓は全て倒れましたが、お寺が修理をし、今も大切にお守りしています。

 ・住所:小千谷市三仏生3110

会津藩士の墓(片貝山屋)

個人宅に祀られている墓

 小千谷市片貝町県道沿いの、民家の庭の一角に、慶応4年(1868年)5月3日、片貝の戦いで戦死した会津藩士3名の名が刻まれた墓が、ひっそりと佇んでいます。重傷を負い戦場跡に残された3人の会津藩士を、片貝山屋の人々は、集落の阿弥陀堂に匿いましたが、3人は亡くなってしまいました。墓石は長年の風雨により、名前が読み取りづらく、「会津藩」の文字がかろうじて読めます。

 ・住所:小千谷市片貝山屋

尾州藩士の墓(元中子共同墓地)

尾州藩士の墓

 東小千谷の閑静な住宅街の中に元中子共同墓地があり、その一角に、戊辰戦争で亡くなった尾州藩士のお墓が2基、寄り添うように建っています。墓石に刻まれた文字は、今でもはっきりと読み取れ、一人は戦死、一人は病死であったことが分かります。

 ・住所:小千谷市元中子(もとなかご)